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仙台真田氏と片倉小十郎の旅(6) 喜多・田村の墓 [-2018旅行・地域]

あの真田幸村の墓が白石市にある!

オレがこの衝撃の事実を知ったのは実は近年だ。
大八と阿梅らのことは以前から知っていたのだが・・・(-_-)

そんな事情ゆえに仙台真田氏は、
偽装系図の家筋として江戸時代を過ごしたのだが、
実は真田幸村の血脈を伝える家柄である、
と晴れて公言できたのは明治の世になってからだ。

そんな幸村の墓は江戸初期に娘婿により建立された秘密ゆえに、
墓石には字など刻まれておらずまっさらな石である。

そんな背景を送り、時代は下り、
約400年後の現在へ伝わる浪漫に感激 (ノД`)

そのお墓がこれだ!

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場所は先の片倉家歴代城主廟所とほぼ同じ愛宕山界隈にある。
田村清顕公墓所の一角にだ。
アクセスが同じ少納言喜多の墓もあるので必見だ。

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案内板が「喜多の墓、田村の墓」と素っ気ないので、
興味の無い人はもちろん、歴史ファンでも多少の知識が必要かも。
(このR113を約100km西進するとオレの家近くのセブンイレブンだ!
 ・・・とそれがどーした? とよい子は突っ込まないよーに (`ε´) )

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行き止まりの広場は観光バスOKの広さだが、そんなに人が来るのか!?
向かって左奥が喜多の墓で右奥が田村の墓だ。

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まずは喜多の墓から参拝だ。
(美味しいもの(幸村の墓)は後に♪ という幼稚な心境ネ(^_-) )

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整備された石畳の通路が嬉しい。

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およそ150mを歩いたか、周囲に墓石等が見受けられ始めると、

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ありました、少納言喜多の墓 (^^)/

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正確な資料が少なく伝説の域を出ない人物だが、
片倉小十郎景綱の異父姉で、伊達政宗の保育・教育係として、
文武兼備の日本3賢婦として称えられている。

また弟景綱のため白地に黒鐘の馬印を図案し与え、
「名を天下に鳴り響かせよ」と励ましたという伝説もある人物だ。
ちなみにその黒鐘は白石市の市章となっている。

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慶長15(1610)年7月に72歳で没。深く合掌 <(_ _)>

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その下に滝の観世音堂があり、晩年の喜多が過ごしたらしいが・・・

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これがその・・・本当かなぁ~(-_-)? ま、いっか (^^)

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さて来た石畳路を戻り、次はいよいよ田村の墓=真田幸村の墓だ。

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こちらも雰囲気のある林の中の石畳路を進む。

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程なくそれらしい場所が現れると気分が高揚し卒倒しそうになる \(^^)/
それが田村の墓。

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中央が三春(現福島県郡山市)の大名で、
政宗の正室 愛姫の父親 田村清顕の墓だ。

戦乱の世にあり清顕は豊臣秀吉に領土を没収され、白石へ移住したらしい。
その孫の定廣は伊具郡に身を潜めていたが、
愛姫の命により片倉小十郎重長が白石に招き、
喜多の名跡を継ぎ、片倉金兵衛と改名し、
幸村の娘の阿菖蒲を妻として仙台藩士となった。

ちなみに阿菖蒲は先の5人とは別に、
後に重長により京都より白石へ招かれた。

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定廣が田村家の墓と舅に当たる幸村の墓をこの地に建立し、
一族の菩提を弔い、没後は阿菖蒲と共に眠っている。

田村家もまた戦国の世に倣い厳しい運命を辿ったが、
真田幸村の墓もまた数奇な運命を辿って、ここに在る・・・合掌 <(_ _)>

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幸村と阿菖蒲の親子が仲良く並んでいる。

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後年の説明碑に「真田左衛門佐源幸村御墓」と。

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同じく「真田幸村・・・阿菖蒲・・・」や「田村・・・改片倉金兵衛・・・」と。

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父を偲ぶのに無名の墓碑を立てるのが精一杯だった、
幸村の遺子たちの想いが、悠久の時を越えて伝わってくる (ノД`)

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そんな浪漫に胸がいっぱいになり、
ここを離れがたく、しばし周囲をウロウロする怪しいオレ (^0^;)

・・・イイね!小粒のようでキリリと迫る白石 (^^)/   (ついに感動の最終回へ


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